仏法考察



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[222] 本仏・本尊論28

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月30日(日)19時20分50秒   通報    編集済


結論


本仏・本尊論として28回まで論じてきましたが、
法華経二十八品にちなんで今回をもって論を結びたいと思います。

大聖人様は、ご自身のことを
本仏などと一言もいわれておりません。
また、本尊にしても日蓮正宗が主張するような
特定の本尊を指して帰依の対象となる本尊とする
などとも決して云われておりません。

『諸法実相抄』に、

「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」

とありますように、
「迹仏」に対しての「本仏」と仰せになっており、
『十法界事』では、

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。」

「有始」にたいしての「無始」の本仏と仰せです。このように、
大聖人様は、絶対神のような特定の一仏を指して
「本仏」といわれてるのではありません。

本尊にしましても、『本尊問答抄』に、

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」

とありますように、

「法華経の題目を本尊とする」と明確にお示しです。
そこのところを教学的に解りやすく
「本仏・本尊論」として今回、文章にまとめてみました。


仏の真意は、仏と仏にしか伝わりません。
まして、分別の用語である「文章」でもって
その全てが正しく伝わるはずもありません。

リンゴを食べて、「おいしい」と感じたその「おいしい」と、
他者が感じる「おいしい」とは、
「おいしい」という共通認識(客観)で定義された言語の
「おいしい」であって、
それぞれが感じ取った「おいしい」は、
それぞれの感性の違いから
全く等しい「おいしい」では、ありません。
そういった意味に於いても、
日蓮正宗がいう「法水写瓶」はありえませんし、
そのような言葉は、御書のどこにも書かれておりません。

大聖人様は、御書の中で何度も「依法不依人」
(法によって人によらざれ)と人の言葉を基準とするのではなく、
法を基準としていきなさいと厳しく御指南されております。

人は自分の想いを相手に伝える方法として言葉を用いますが、
言葉に置き換えた時点で主観は客観に転換されてしまいます。

主観を説いたこの仏法の奥義は、
言葉では伝えることは出来ません。

「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」    『法華経方便品第二』
(ただ仏と仏とのみが、すなわち能く、諸法の実相を究め尽くす)

信心によって仏と意識を共有することでしか悟り得る事は出来ません。
その仏の悟りは「甚深無量」で、
我々凡夫の理解を遥かに超えた所にあります。

この世の中に、
仏の説かれた教えを100%完璧に
理解出来ている人物などいるはずもありません。
我々は凡夫なのですから。

自分達が100%正しいなどと思い込んでいる人達がいたとしたら、
その人達は未だ悟りを得てもいないのに悟りを得たと
思い込んでいる謗法ものに他なりません。

真実を追究していく姿勢をもって日々、
教学研鑽に励んで行きたいものです。

ここで述べてきました事は、現時点において
私が正しいと思ったことを文章に起こしたまでの事で、
先々ではまた違った考えになっていることもあり得ます。
また、これは、私にとっての正解であって、
あなたにとっての正解は、
あなたの心の中にしかありません。

大聖人様の仏法は、「己心の法」なのですから。

「本仏・本尊論」終わり。

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