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本因本果の法門
『当体義抄』の
「蓮華は法の名である」=当体蓮華
と、
「妙法を蓮華に譬える」=譬喩蓮華
の違いを説明します。
天台大師の「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」
の釈は「譬喩蓮華」を言ったもので、
譬えをかりて理解すると、
「世の中は原因があるから結果がる」
という理解に繋がるかと思います。
当体蓮華の方は、
因と果が同時に具わる因果具時の法であり
これは、時間の流れが存在しない世界を意味します。
そのことを解りやすく説明する為にAとB、二つの譬えを用います。
[ Aの譬え話 ]
例えば高校球児が「俺は甲子園に行くんだ!」と決意したその心の中には、
既に未来に甲子園で活躍する自身が確定しているんだという考え。
(因と果は一心に収まるという譬喩蓮華の発想)
[ Bの譬え話 ]
高校球児が「俺は甲子園に行くんだ!」と決意してお題目を必死に唱える。
すると今は無名だが「○○高校に行って野球をやろう!」と唱題行の中でひらめく。
そしてその○○高校に進学したところ、
素晴らしい指導者が転任してきて、豪腕投手も入学してきて
気がついたら本当に甲子園のグラウンドに自分は立っていた。
(当体蓮華の話)
Aの譬え話は、信心しているとよく聞く話のパターンですよね。
解りやすい譬喩蓮華です。
Bの譬え話は、これは法の話です。どんな法かといえば、
南無妙法蓮華経と唱えると現在・過去・未来が無くなるという法です。
南無妙法蓮華経の境地に立つと未来が自然と見えてくるのです。
時間の流れが存在しないので未来とか過去とかの分別が存在しないので、
自分が進むべき未来が自然と見えてくるのです。
これを仏眼といいます。
これが妙法という法なのです。
「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理(ことわり)なれば無分別なり」
『三世諸仏総勘文教相廃立』
「無始無終」も、現在と過去と未来の三つの分別が無い、無分別の境地だからこそ
無始無終と成りうるのです。
つづく