仏法考察



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[206] 本仏・本尊論⑬

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月24日(月)06時09分8秒   通報    編集済


『開目抄上』


『寿量品得意抄』と同じような内容が『開目抄上』の中でも述べられています。

[本文]
「 華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は繩を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。
 日蓮案じて云く二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり、其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上・爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」

[現代語訳]
 華厳を始めとして般若・大日経等は二乗作仏をかくすのみならず久遠実成を説きかくしたのである。これらの爾前の経々には二つの失がある。一には十界の中に三千の差別を設けて、二乗は作仏せずと説くゆえに、いまだ開せずといって迹門の一念三千を隠している。法華経迹門にいたれば、法界はすべて、一味平等となり、二乗も作仏するゆえに権を開して実を顕わすとなすのである。二にはインドに生まれて成仏した(始成正覚)というゆえに、なおいまだ迹を発せずとて、本門の久遠、常住の生命観(久遠実成を隠しているこの二つの大法は、一代仏教の綱骨であり、一切経の心髄である。迹門方便品は一念三千を諸法実相に約して説き、また二乗作仏を説いて、爾前の二種の失のうち一つを脱れた。しかりとはいいながら、いまだ発迹では、仏の本地をあらわしていないゆえに、本有常住の生命の実体を説き明かしていない。すなわち発迹顕本していないから、生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住の生命の実体が明かれていないから、仏の生命も九界の生命もその実体が不明で、したがって二乗作仏も不定である。たとえていえば、一念三千を説いたけれどもそれは理の上で説いたに過ぎないから、水面に浮かぶ月影のようなもので、形はそのとおりであるが、実体そのものはないのである。また二乗が作仏するといっても、仏界・九界ともにその本体を説かれていないので根なし草が波の上に浮んでいるごとく、現在において成仏するというだけで、その原因も過去世の下種がわからないから、「定まらず」と仰せられるのである。
 さて、法華経の本門にいたりて、釈尊は五百塵点劫のその昔に成仏したと説いたので、それまでに多数の経々を説いて来た応身・報身等、すべての仏身はみな打ち破られたのである。なぜならそれらの仏身はいかに荘厳な姿に説かれていても、みんなインドに修業し、この世で成仏したと説いているのである。このように寿量品以前の経で説いてきた仏(迹仏)を打ち破ったのであるから、これらの経に説いている成仏のための修業すなわち因も打ち破られてしまった。これすなわち無始無終の仏界に具わって、これこそ真の十界互具・一念三千である。
青文字の部分は、本仏・本尊論⑭以降で解説します


 かくて爾前経で説かれた仏はどうか。とりかえってみるならば、華厳経で説く蓮華蔵世界の中台とか十方台葉の化仏、阿含経で説く丈六の小釈迦、あるいは方等・般若や金光明経や阿弥陀経や大日経等に説かれている権仏等は、この寿量品の本仏が迹を垂れて示現しているのであって、天の月がしばらく大小の器の水に影を浮かべているようなものである。しかるに、諸宗の学者等は、近くは自宗の開祖や先輩たちの邪現に迷い、遠くは法華経寿量品を知らないのである。そして、水にうつる月影が本物の月かと思い、あるいは、水の中へ入って取ろうとし、あるいは縄をつなぎとめようとしている。天台はこのように本仏に迷って迹仏に執着する者をさして「天月を知らないで、ただ池の月を観ている」と言っている

 爾前四十余年の経教は法華経迹門に劣り、法華経においては迹門が本門に劣る。しかし日蓮がここで考えるのに、世間一般の人々にとっては、迹門で説かれた二乗作仏さえ、爾前経の方が強くて迹門は信じがたい。すなわち二乗作仏の根拠は薄弱のように見える。しかし本門寿量品の久遠実成は、また比較にならないほど爾前で説くインドで成仏したという始成思想が強くて寿量品を信じがたいのである。その理由は、爾前と法華を相対するに、なお爾前の方が説時も長く、経も多くて、法華経が薄弱である上に、始成正覚を説く点においては、迹門十四品も爾前経と同一である。本門十四品のなかでさえ、涌出品・寿量品の二品を除いては、みな始成正覚の思想が存している。最後に、釈尊が入滅する直前に説いた大般涅槃経四十巻をはじめ、そのほかの法華前後に説いたもろもろの大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終は説いているが応身および報身の本地は、あらわしていない

※ ここでいう本地とは、応身の本地---方便品---三千塵点劫、報身の本地---寿量品---五百塵点劫、ということです。


つづく

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