仏法考察



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[203] 本仏・本尊論⑩

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月23日(日)05時14分56秒   通報    編集済


五百塵点劫


正法・像法時代は、釈迦が久遠下種した本已有善の弟子達(声聞・縁覚)が、
成仏に向かって精進していく釈迦仏法(脱益仏法)です。

しかし、末法に生まれてくる衆生は、
久遠下種を受けていない仏縁を持たない本未有善の荒凡夫です。

仏となる種(仏縁)を受けていない衆生ですから、
釈尊の仏像を本尊として崇めても仏果を得ることはありえません。

ですから末法に於いては、新たな仏縁となりうる本尊が不可欠となります。
そこのことろを大聖人様は『呵責謗法滅罪抄』の中で、

 「二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、
  然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・
  真言大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けども
  いまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし」

  [現代語訳]
  二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした
  しかしながら、但小乗・大乗・華厳経・涅槃経・観経・法華経迹門・普賢経等の仏、
  真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、
  いまだに寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない

と、末法に於ける寿量品文底の本尊の必要性を述べられております。
「寿量品文底」はよく使われる用語ですが、
この寿量品文底こそが先に紹介しました「三五の二法」の五百塵点劫の法門の意味するところでもあります。

法華経迹門は、三千塵点劫の遠い過去において
釈尊と仏縁を交えた声聞・縁覚の本已有善の弟子達が成仏していくお話です。

それに対し法華経本門は
末法における本未有善の凡夫を誰が、どうやって成仏に導いていくかのお話です。

法華経迹門の中で、釈迦の説法を聞いていた三千塵点劫の因縁の弟子達は、
『従地涌出品第十五』で、末法流布を誓願しますが釈迦はそれを制止して、
五百塵点劫の久遠の弟子を呼び起こします。
そこに登場する地涌の菩薩の姿を大聖人様は『開目抄』の中で、

 「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき
  普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・
  大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば
  獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず、」

  [現代語訳]
  釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら
  比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や
  大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、
  猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである
  あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。

と語られています。
大地が振動で裂け、その中から涌き出てきた無量千万億の地涌の菩薩は、
体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。


ここで語られている「虚空会の儀式」は、とても現実離れしていてまるで
おとぎ話のように聞こえますが、瞑想によって肉体から解脱した釈迦自身の
空の意識(時間や空観を卓越した世界)の話で、九識論でいうところの
八識・九識の深層意識層にあたるかと思います。
そこに出現した七宝の塔こそ、九識心王真如の都「南無妙法蓮華経」です。

釈迦は、この法華経本門の中で末法の御本尊の姿をご教示あそばされていますが、
それは『方便品第二』に

 「止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。
  第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。」

  [現代語訳]
  やめましょう。舎利弗よ、もうこれ以上説くべきではありません。
  なぜなら、仏が得たところは、最も稀な、最も理解しがたい法だからなのです。
  ただ仏と仏だけが、諸法の実相、あらゆる事物や現象や存在の
  あるがままの真実の姿かたちを、究め尽くすことができるのです

とあるように、仏と仏にしかわからない仏の究極の法なのです。


つづく

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