仏法考察



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


215件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[223] 第2部 掲載

投稿者: 法介 投稿日:2018年10月 6日(土)13時22分51秒   通報

HPに今回の「本仏・本尊論」と「偽りの戒壇」を第2部として追加しました。

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[222] 本仏・本尊論28

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月30日(日)19時20分50秒   通報    編集済


結論


本仏・本尊論として28回まで論じてきましたが、
法華経二十八品にちなんで今回をもって論を結びたいと思います。

大聖人様は、ご自身のことを
本仏などと一言もいわれておりません。
また、本尊にしても日蓮正宗が主張するような
特定の本尊を指して帰依の対象となる本尊とする
などとも決して云われておりません。

『諸法実相抄』に、

「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」

とありますように、
「迹仏」に対しての「本仏」と仰せになっており、
『十法界事』では、

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。」

「有始」にたいしての「無始」の本仏と仰せです。このように、
大聖人様は、絶対神のような特定の一仏を指して
「本仏」といわれてるのではありません。

本尊にしましても、『本尊問答抄』に、

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」

とありますように、

「法華経の題目を本尊とする」と明確にお示しです。
そこのところを教学的に解りやすく
「本仏・本尊論」として今回、文章にまとめてみました。


仏の真意は、仏と仏にしか伝わりません。
まして、分別の用語である「文章」でもって
その全てが正しく伝わるはずもありません。

リンゴを食べて、「おいしい」と感じたその「おいしい」と、
他者が感じる「おいしい」とは、
「おいしい」という共通認識(客観)で定義された言語の
「おいしい」であって、
それぞれが感じ取った「おいしい」は、
それぞれの感性の違いから
全く等しい「おいしい」では、ありません。
そういった意味に於いても、
日蓮正宗がいう「法水写瓶」はありえませんし、
そのような言葉は、御書のどこにも書かれておりません。

大聖人様は、御書の中で何度も「依法不依人」
(法によって人によらざれ)と人の言葉を基準とするのではなく、
法を基準としていきなさいと厳しく御指南されております。

人は自分の想いを相手に伝える方法として言葉を用いますが、
言葉に置き換えた時点で主観は客観に転換されてしまいます。

主観を説いたこの仏法の奥義は、
言葉では伝えることは出来ません。

「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」    『法華経方便品第二』
(ただ仏と仏とのみが、すなわち能く、諸法の実相を究め尽くす)

信心によって仏と意識を共有することでしか悟り得る事は出来ません。
その仏の悟りは「甚深無量」で、
我々凡夫の理解を遥かに超えた所にあります。

この世の中に、
仏の説かれた教えを100%完璧に
理解出来ている人物などいるはずもありません。
我々は凡夫なのですから。

自分達が100%正しいなどと思い込んでいる人達がいたとしたら、
その人達は未だ悟りを得てもいないのに悟りを得たと
思い込んでいる謗法ものに他なりません。

真実を追究していく姿勢をもって日々、
教学研鑽に励んで行きたいものです。

ここで述べてきました事は、現時点において
私が正しいと思ったことを文章に起こしたまでの事で、
先々ではまた違った考えになっていることもあり得ます。
また、これは、私にとっての正解であって、
あなたにとっての正解は、
あなたの心の中にしかありません。

大聖人様の仏法は、「己心の法」なのですから。

「本仏・本尊論」終わり。

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[221] 本仏・本尊論27

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月30日(日)19時10分5秒   通報    編集済


考察


法華経が説かれる前は、仏法の実践方法は、
小乗仏教の声聞乗(四諦の教えを実践する道)
縁覚乗(十二縁起の法を実践する道)
大乗仏教の菩薩乗(六波羅蜜を実践する道)
の三乗が示されました。

衆生の機根に差があったので
仏は、それぞれの機根に合わせて修行法を示されました。
しかし法華経に至っては、それは一仏乗を説く為の
巧みな手段、つまり方便であったといいます。

そこから、真実の法を説くのかと思えば、
法華経の迹門では、久遠を明かさず
本門に於いては久遠は明かしても
文底の「南無妙法蓮華経」を明かさないまま入滅されました。

何故、
ストレートに「南無妙法蓮華経」を説かなかったのか。
「随自意」で法華経を説くわけですから、
弟子達の機根は関係ないわけです。

その答えは、

寿量品の中で釈迦自身が言っています。
「相手によってさまざまに工夫しながら私は法を説く」と。

その言葉から考えるに、

三千塵点劫よりの因縁の声聞・縁覚の弟子達を
正法・像法時代に転生させ、
随自意で説かれた法華経を
転生した彼等に
衆生が理解しやすい形態に展開させ、
衆生の機根を高めさせていったのでしょう。

そうして出現した弟子達が
南岳・妙楽・竜樹・天親・天台・伝教等で、
小乗から大乗の教えへと釈迦の教えを展開し、
天台が最終的に法華経を理論体系化しました。


『下山御消息』
「像法一千年の内に入りぬれば月氏の仏法漸く漢土日本に渡り来る世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を 一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり、所謂・迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是なり」

[ 現代語訳 ]
 像法の一千年に入ると、インドの仏法は次第に中国・日本へと伝えられてきた。釈尊は明らかに薬王菩薩等の迹化、及び他方の大菩薩に法華経の半分、迹門の十四品を授けられた。これはまた地涌の大菩薩が末法の初めに出現されて本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせるためのその序にあたる。いわゆる迹門弘通の人とは南岳・天台・妙楽・伝教等の人たちである。


法華経の迹門は、いわば三千塵点劫より因縁の
声聞・縁覚の弟子達にむけて説かれたもので、
その弟子達が、
仏に成る為にあたえられた最後の試練が、
本門でとかれる菩薩行ではないでしょうか。

末法の衆生を救うく為に本門で登場する地涌の菩薩達。
その地涌の菩薩を助ける役目を担うのが、
三千塵点劫の弟子達なのではないかと思います。

倶体・倶用でいえば、
倶体が五百塵点劫の地涌の菩薩(体の仏)、
倶用が三千塵点劫の声聞・縁覚(用の仏)。
その裏づけとなるのが『御義口伝巻下』にある次の御文です。

 「されば無死退滅は空なり 有生出在は仮なり 如来如実は中道なり、
  無死退滅は無作の報身なり 有生出在は無作の応身なり
  如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、
  一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり」


三千塵点劫の声聞・縁覚の弟子達は、
迹門において未来の成仏を約束された「記別」を
釈迦から授かります。
しかし、未来の成仏を約束された訳であって
その時点に於いて実際に仏に成ったわけではありません。
末法に於いては菩薩に転生し、
地涌の菩薩を助けるはたらき「用の仏」として
無死退滅の報身として「生」ではなく「死」の側面として
無意識層に存在しているのでしょう。

 「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり
  又此れを当体蓮華とも云うなり」   『生死一大事血脈抄』

 「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、
  然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ
  全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を
  生死一大事の血脈とは云うなり」   『生死一大事血脈抄』


つづく

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[220] 本仏・本尊論26

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月30日(日)04時40分34秒   通報    編集済


直達正観
(じきたつしょうかん)


「死」を迎えることで
意識が八識以下の深層意識へ向かい、
再び六識層の六道の欲界に
転生しないように修行するのが爾前迹門の
正法・像法時代の仏道修行です。
歴劫修行の先に成仏があります。

しかし、末法に於いては、
大聖人様が御本尊を顕しになられたおかげで
瞑想などの修行も
気の遠くなるような歴劫修行も必要なく、
直達正観によって
ただちに仏の境地に達することができます。 (即身成仏)

瞑想で自身の心の深層階層を探らなくても
目の前に仏縁となる仏界を直に拝することが出来るわけですから
物凄くありがたいことなのです。

大聖人様は『観心本尊抄』に、

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
  我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」

と、釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、
すべて妙法五字に納まっていて、
これを受持信行する衆生は、
その広大無辺なる成仏の功徳を
直ちに享受することができると説かれています。

また、『三世諸仏総勘文教相廃立』には、次のように仰せです。

 「仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも
  一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る」

御本尊に向かって題目を唱えれば、
仏界の十如是が顕れると同時に
己心の仏界(九界の中の仏界)も顕れて、
具体(九界即仏界)具用(仏界即九界)が一具となって
当体蓮華の一体の仏となる。

当体蓮華は、
時間の流れが存在しない因果倶時なので
当体蓮華の仏、
すなわち御本尊と境智冥合した
無作三身の末法の法華経の行者こそ、
「無始無終」の本仏です。

『御義口伝巻下』に云く、

 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり
  無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」


つづく

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[219] 本仏・本尊論25

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月30日(日)04時30分52秒   通報    編集済


意識の共有


天台大師は、
大乗仏教の「唯識論」の物事を認識する
心の作用「識」への考察を
「九識論」として展開しました。

「九識論」では、「死」は、人の意識が
「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」へと
潜在化していくプロセスであると説きます。

「死」によって肉体が滅びることで
六識が消滅し、執着していた我が無くなることで七識も滅します。
そして八識の「阿頼耶識」へと意識は辿り着きます。

辿りついた意識は、
肉体が存在しない為、
他の意識と共有して存在します。

先に説明しました「仏の用の三身」は、
この深層意識に於ける
「意識の共有」による用(はたらき)で
「凡夫の体の三身」と「仏の用の三身」とが境智冥合して
体と用とが一具となり
当体蓮華の一体の仏と成って
南無妙法蓮華経となります。

日蓮正宗が主張するような、
「日蓮大聖人様が南無妙法蓮華経なのです。」
では、ありません。

『当体義抄』
「倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは
 日蓮が弟子檀那等の中の事なり」


つづく

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[218] 本仏・本尊論24

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月29日(土)06時54分28秒   通報    編集済


神通之力


『諸法実相抄』 に、

 「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。
  通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」

神通之力とは、法身、報身、応身の「用の三身」であると示されています。
「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、
『諸法実相抄』に、

 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。

 https://6819.teacup.com/mh357/bbs/198 倶体・倶用の三身

「倶体・倶用の三身」は、
「境智冥合」と密接な関係にありますので
両者の関係を説明します。


現実世界に存在している我々凡夫は当体として存在しています。
煩悩におおわれている百界の色相は仮諦であり応身です。
一念三千の法門で分別を無分別に転じる智慧が報身です。
自身の胸中の奥底に眠る「九識心王真如の都」が法身です。
この三身はどれも我々凡夫の姿です。

   <凡夫の体の三身>
  十界互具の百界の色相  仮諦(応身)
  一念三千即自受用身   空諦(報身)
  九識の南無妙法蓮華経  中諦(法身)


三身が一身に顕れて当体蓮華(因果倶時)となり、
一身が三身に転じて「円融三観」とも「三諦の円融」ともいいます。
「体の三身」とは、我々凡夫の当体(実体)を示す言葉なのです。

※ 仏法では実体は無く、無我・無自性を説きます。
  ですから「実体」ではなく「当体」とよびます。


境智冥合の「智」は、主観として感じ取る我々凡夫の心です。
その主観は何を感じ取っているかといえば、
目に見える世界や聞こえてくる音や様々な匂い、
また口にする物の味わいや肌で感じとる感触など
いわゆる「五感」で感じ取った情報を
「意識」として認識して主観となります。
九識論でいうところの六識層の働きです。

そのように我々凡夫は、
客観的に存在する外界の情報を
個々人の六識層の働きで各々の主観を形成し、
それぞれに異なった世界を創り出しています。
一念三千でいうところの五陰世間です。

この人間の認識の根幹となる六識層の働きは、
常に我欲などへの執着(七識の末那識)がともない、
正しい判断を出来ずにもいます。

ですから、仏法では自身の意識を
六識層の更に下へと深めていきます。
爾前迹門で行われる瞑想や天台の止観法も
この深層意識へのアプローチです。

無意識層として存在しているこの 深層意識へ意識をもっていくとどうなるか。

過去遠遠劫より積み重ねてきた自身の宿業(八識の阿頼耶)を感得し
心の底から自己反省するに至って宿業は罪障消滅します。

なぜ罪障が消滅するのか。
それが仏の神通之力の用(はたらき)「仏の用の三身」です。

境智冥合の「智」が 、
「凡夫の体の三身」であり「主観」(三観)であるのに対し、

「境」は、仏の悟りである仮諦、空諦、中諦の「三諦」であり、
法身、報身、応身の「仏の用の三身」になります。


  (凡夫の体の三身)      智        境
  十界互具の百界の色相 応身 仮観 → 仮諦 応身如来
  一念三千即自受用身  報身 空観 → 空諦 報身如来
  九識の南無妙法蓮華経 法身 中観 → 中諦 法身如来
                     (仏の用の三身)

         <境智冥合の図>


つづく

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[217] 愚人さんへ

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月29日(土)06時37分10秒   通報

愚人さんへ

一念三千の指摘ですが、

「十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり」 『一念三千法門』

百界と顕れたる色相 仮諦
千如        空諦
三千世間      中諦

と、私もHPの方で説明していたと思います。
(愚人さんと同じ考え)

今回、掲示板を再開して、
方便品、寿量品を中心にして話しを展開しています。
そのさいに、勤行・唱題行の意義を考えた時、

方便品 ---仮諦
寿量品 ---空諦
題目  ---中諦

にあたるのではという思慮に至った次第です。
寿量品を空諦と捉える根拠は、
『御義口伝』に、

 「自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」

とあります。
一念三千即自受用身ですから報身は空諦ということになります。

しかし、それでは先の『一念三千法門』の説明との間に矛盾が生じますね。

この矛盾は、
「一念三千即自受用身」なので報身(空諦)ですが、
それを更に三諦に開く三三九諦の義をもって
整理がつくかと思います。

http://mh357.web.fc2.com/3-7-1.html 3-7.一念三千の法門-(1)

ここの図1をもって説明します。

図1の「空諦泯法」が報身如来で
『御義口伝』でいう「一念三千即自受用身」です。

そして『一念三千法門』の御文は、
図1の、
仮諦の空が「百界と顕れたる色相の仮諦」
空諦の空が「千如は総て空諦」
中諦の空が「三千世間は総じて法身」
ということで矛盾はなくなるかと思います。

あと、イタズラ投稿がありましたので
気が散るので管理者のみ投稿モードに切り替えています。
私の投稿ペースに合わせてモードを切り替えたりしながら
活用していきますのでご了承ください。

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[216] 本仏・本尊論23

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月28日(金)10時58分57秒   通報    編集済


如来秘密


大聖人様は、如来の秘密について、『三大秘法抄』 に、

 「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、
  又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、
  仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

と仰せです。
爾前経では、

「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」
                      『開目抄上』

と云われるように、大日法身の無始無終(有名無実の権仏)
は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、
法華経に至って初めて明かされたその応身・報身の本地は、

  方便品---三千塵点劫---応身の本地
  寿量品---五百塵点劫---報身の本地

となります。
この「三五の法門」によって明かされた「本因本果の法門」が、

 https://6819.teacup.com/mh357/bbs/199 三五の法門
 https://6819.teacup.com/mh357/bbs/203 五百塵点劫
 https://6819.teacup.com/mh357/bbs/210 本因本果の法門

理解できてはじめて一身即三身、三身即一身の
「三身の法門」を理解出来ます。

 https://6819.teacup.com/mh357/bbs/204 三身の法門


爾前権教では、この三身は別体として説かれていて、
応身・報身の本地やその実体(当体)も明かされていません。

仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」なのです。


つづく

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[215] 本仏・本尊論22

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月28日(金)10時46分30秒   通報


如来秘密神通之力


『見宝塔品第十一』で七宝の塔が地より湧き出て、
空中にとどまり荘厳な「虚空会の儀式」がはじまります。

釈迦・多宝の二仏がその宝塔の中に並坐し、
『従地涌出品第十五』で
五百塵点劫の久遠の弟子である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が
それぞれが六万恒河沙等の眷属を率いて大地から涌き出てきます。

そして『如来寿量品第十六』で
五百塵点劫の久遠実成が明かされ、
「本因本果の法門」が随自意で説かれていきます。


仏にしか理解できない
その随自意の『如来寿量品第十六』の文底の意義を
大聖人様は、「南無妙法蓮華経」と顕されました。
そして御義口伝に云く、

 「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」
  ※ 依文とはより所となる経文のこと。

と、寿量品の中でも「如来秘密神通之力」の経文が
御本尊の支柱であると御指南され更に、

 「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」

と、「即身成仏」とは即ち「如来秘密神通之力」なりとまで仰せです。

では、その寿量品の「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか、

「如来秘密」と「神通之力」に分けて詳しく説明してまいります。


つづく

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[214] 本仏・本尊論21

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月27日(木)05時16分44秒   通報    編集済


本門と迹門


爾前迹門では、
菩薩が長い間、歴劫修行をしたのちに
ようやく仏界に辿り着つくという成仏観です。

厳しい修行の中で
九界のあらゆる煩悩や欲を断ち切って、
仏界の生命を成就し
三十二相の色相荘厳の仏と成ります。

修行という因を積んだ後に、成仏という果を得ます。
ですから因と果は時間的に同時ではなく異時です。(因果異時)

また、九界の生命を断じて、仏界の生命を成就するので
九界と仏界とに隔たりがあります。(厭離断九の仏)


それに対し本門で示される久遠の釈尊は、
仏として存在しながら尚、菩薩の道を行じ続けている
九界を含んだ仏界です。

一方で、菩薩でありながら仏であるといった
仏界を含んだ九界の上行菩薩も示されています。

どちらも等しく仏であるがゆえに
仏と仏の間でしか成り立たないはずの妙法の付属が行われます。

また仏となる修行(菩薩行)の因と、
仏と成った果が
同時に一身に備わっている釈尊の姿は、
当体蓮華の因果倶時なので「無始無終」です。
※時間の流れが存在しない当体蓮華なので無始無終
  https://6819.teacup.com/mh357/bbs/210 本仏・本尊論⑰ を参照

かたや、菩薩(九界)でありながら
仏(仏界)である上行菩薩の姿には、
九界と仏界とに隔たりがない十界(十界互具)の実体(当体)が示されています。

以上が、『開目抄上』の

 「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す
  此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて
  真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

の御文の意味です。


釈迦と声聞の弟子達との間には、三千塵点劫の因縁がありました。
その深い因縁が未来に弟子達を成仏へと導いていきます。
法華経迹門は、そのことを中心に描かれています。

法華経本門は、
釈迦と全く因縁の無い、末法の時代に生まれてくる衆生を
成仏に導くにはどうしたらいいかがテーマです。

成仏という「果」を得る為には、
成仏と成り得る為の「因」を作らなくてはいけません。

その「因」は、
爾前迹門で説かれてきた
九界からかけ離れた実体が存在しない厭離断九の仏(虚仏)のような
「水にやどる月」「根無し草が浪の上に浮かんでいる」ようなものではなく、
未来永劫に末法の衆生が拠りどころとすることの出来る
本仏によるところの本因でなければなりません。

その本因となる末法の本尊の姿が 、
法華経本門の虚空会の儀式の中に秘められています。


つづく

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[213] 本仏・本尊論⑳

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月26日(水)11時59分34秒   通報    編集済


一大事因縁


正法・像法時代までは釈迦の三千塵点劫の弟子達が活躍します。
三千塵点劫の弟子達は、
教主である釈迦と三千塵点劫以来の師弟の因縁によって
正法・像法時代に出現しました。

 「妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し
  一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし」
                    『爾前二乗菩薩不作仏事』

とあるように、法華経の大意は、
諸仏は唯一大事の因縁のゆえに世に出現します。
そこにおいては一切衆生にことごとく仏性があることを説き示し、
仏の教えを聞いてそのとおりに観行して仏道修行をするならば
皆、ことごとく成仏に至ります。

観行とは、己心に仏性を観ずる修行法で
一般的には仏像をそのきっかけ(縁)として崇めます。

それらの仏像はおおむね三十二相の特徴をあらわした色相荘厳の仏(厭離断九の仏)ですが、
『訶責謗法滅罪抄』に仰せのように 、

「二千二百余年が間・教主釈尊の絵像.木像を賢王.聖主は本尊とす、然れども但小乗.大乗・華厳.涅槃・観経・法華経の迹門.普賢経等の仏・真言.大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし」

[ 現代語訳 ]
二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした。しかしながら、但小乗・大乗・華厳経・涅槃経・観経・法華経迹門・普賢経等の仏、真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、いまだに寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない。どうした事とも推量しがたい。

「寿量品の釈尊」は未だ顕されておりませんでした。

三千塵点劫の弟子達が活躍する正法・像法時代に於いては
色相荘厳の仏像を本尊とすることには、意味がありました。
色相荘厳の仏像は、自分達の三千塵点劫以来のお師匠様の成仏された姿ですから。

しかし、末法に於いては、
全く釈迦と因縁のない「本未有善」の荒凡夫が生まれてくる時代です。
仏との因がないので果は得ることが出来ないのは因果の道理です。
そのような末法の凡夫が色相荘厳の仏像を本尊として崇めてもなんの意味もありません。

末法には新たな仏縁となり得る因が必要なのです。
ですから釈迦は寿量品に於いて末法の衆生を救うべく
五百塵点劫の「本因」を明かされました。

その本因には同時に「本果」もそなわっており
本因本果が同時に倶わる因果倶時の当体蓮華の法体です。

その久遠の法体を
五百塵点劫の久遠の弟子である上行菩薩に託します。
託すという言い方ではなく、本来、
「仏から仏」に伝えるべき法を
「仏から菩薩」に伝えることで、
その法体の姿を「随自意」でお説きになりました。

「随自意」なので仏にしかその法体の正体は解りません。

しかし上行菩薩は、菩薩であってもなのです。

迹門に於いて理だけが明かされていて
その実体が説かれていなかった十界互具の「実体」が、
菩薩であっても仏」の九界即仏界の上行菩薩の姿として明かされているのです。
と同時に、

「寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、」

と大聖人様が
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の中で仰せのように、
釈尊は、仏界即九界の姿を

我本、菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命、今猶お未だ尽きず
(私は今も菩薩(九界)の道を行じながら仏として生きている)

と示され、真の十界互具が法華経寿量品の中で明かされました。

「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・
 真の十界互具・百界千如・一念三千なるべ」
                   『開目抄上』


つづく

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[212] 本仏・本尊論⑲

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月26日(水)02時18分5秒   通報    編集済


随他意と随自意


随他意とは、仏が衆生の機根に随って法を説くことをいいます。
随自意とは、仏の真実の悟りをそのまま説くことをいいます。

法華経以前の爾前経は、衆生の機根にあわせて仏は随他意で法を説きました。
しかし、法華経に至っては、
真実の悟りをそのまま「随自意」で説かれています。

また、法華経の中でも
迹門は、随他意で説かれています。
三周の説法がまさにそうです。
上根・中根・下根のそれぞれの声聞の機根にあわせて、
三段に分けて説法がなされています。

随他意で説かれているといっても
法華経(随自意)の中の「随他意」ですので、
我々凡夫からすれば殆ど随自意です。

その難信難解な法華経を
正法・像法時代に声聞・縁覚・菩薩といった境涯の
釈迦の弟子達(迹門の三千塵点劫の弟子達)が転生しながら
衆生に対して解りやすく展開していきました。
『訶責謗法滅罪抄』に次のように書かれています。

「文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、その後も香山・清涼山から度々来て大僧等となって法を弘められた。 薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年・四十年・法を弘められた。」

仏が説いた難信難解な随自意の教えを
弟子である声聞・縁覚・菩薩達が衆生の機根にあわせて
「随他意」で弘めていったのです。
竜樹然り、天親然り、天台然り、伝教然り。

 「如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法」
                           『法華取要抄』

と、大聖人様も仰せです。
「天台釈していわく」といった引用は、
数えきれない程に 御書の中で用いられています。

そうした仏滅後に法華経を弘めていった僧侶の中に、
鳩摩羅什(くまらじゅう)という人物がいます。

後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、
仏教普及に大きく貢献した訳経僧です。

法華経もこの鳩摩羅什によって原典が漢訳され 、
それが中国の天台の手に渡り、
やがて日本へと伝わっていきます。

実はその鳩摩羅什が漢訳した法華経の原典には、
「十如是」は無かったということが、
昨今、ネットで取り沙汰されたりもしていますが、
先程も言いましたように、
法華経自体が「随自意」で説かれていますので、
それを解りやすく展開するのが声聞・縁覚・菩薩の役割です。
その役割がなければ、仏の法は人には伝わりません。

鳩摩羅什は、「五何法」を諸法の在り方と解して、
龍樹の大智度論の「九種法」を参考にし、
理解しやすいように「十如是」に開いたのでしょう。
こちらにその旨が詳しく述べられていますので、
関心のある方は一読下さい。
http://www.homyou.hello-work.jp/ron4.html


つづく

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[211] 本仏・本尊論⑱

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月25日(火)21時15分36秒   通報    編集済


無始無終


迹門で説かれる十界互具は、
始成正覚を説いただけで、
本覚本有の十界互具は、明かされていません。

この法華経迹門で説かれる釈迦も、その弟子の声聞達も
三千塵点劫よりの因縁で結ばれた迹化の仏と声聞です。
教化する立場の仏も教化される側の声聞も、
どちらも始成正覚の立場です。

始覚ゆえに本地が無く、
今始めて存在し有るので「本無今有」となります。

そこで説かれる仏は、
未来に向けての常住であって、
過去からの常住ではありません。(有始無終)

十界互具もそのうえで説かれた十界互具ですから、
理だけが説かれていて、
その実体が説かれていない「理の一念三千」に過ぎません。

本門に入って初めてその実体が五百塵点劫として説かれていきます。
そこで明かされる久遠常住の生命に即して示される十界互具が、
「本覚本有の十界互具」です。(無始無終)


『十法界事』

[ 本文 ]
迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり

[ 現代語訳 ]
 迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏も今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。また無始の色心常住の義もない。「この法は法位に住する」と説いているのも、これは、未来に向けての常住であって、これは過去からの常住ではない


余談になりますが、
理の一念三千を明かした天台大師は、
ここでいうところの
迹門の三千塵点劫の弟子です。

「文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり、迦葉阿難等は仏の滅後二十年・四十年・法を弘め給ふ」

『呵責謗法滅罪抄』の中で、
三千塵点劫の弟子達が、釈迦滅後に
法を弘めていったことが書かれています。


つづく

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[210] 本仏・本尊論⑰

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月25日(火)07時05分42秒   通報    編集済


本因本果の法門


『当体義抄』の
「蓮華は法の名である」=当体蓮華
と、
「妙法を蓮華に譬える」=譬喩蓮華
の違いを説明します。


天台大師の「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」
の釈は「譬喩蓮華」を言ったもので、
譬えをかりて理解すると、
「世の中は原因があるから結果がる」
という理解に繋がるかと思います。

当体蓮華の方は、
因と果が同時に具わる因果具時の法であり
これは、時間の流れが存在しない世界を意味します。

そのことを解りやすく説明する為にAとB、二つの譬えを用います。

[ Aの譬え話 ]
例えば高校球児が「俺は甲子園に行くんだ!」と決意したその心の中には、
既に未来に甲子園で活躍する自身が確定しているんだという考え。
(因と果は一心に収まるという譬喩蓮華の発想)

[ Bの譬え話 ]
高校球児が「俺は甲子園に行くんだ!」と決意してお題目を必死に唱える。
すると今は無名だが「○○高校に行って野球をやろう!」と唱題行の中でひらめく。
そしてその○○高校に進学したところ、
素晴らしい指導者が転任してきて、豪腕投手も入学してきて
気がついたら本当に甲子園のグラウンドに自分は立っていた。
(当体蓮華の話)

Aの譬え話は、信心しているとよく聞く話のパターンですよね。
解りやすい譬喩蓮華です。

Bの譬え話は、これは法の話です。どんな法かといえば、
南無妙法蓮華経と唱えると現在・過去・未来が無くなるという法です。
南無妙法蓮華経の境地に立つと未来が自然と見えてくるのです。
時間の流れが存在しないので未来とか過去とかの分別が存在しないので、
自分が進むべき未来が自然と見えてくるのです。
これを仏眼といいます。
これが妙法という法なのです。


「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理(ことわり)なれば無分別なり」
                          『三世諸仏総勘文教相廃立』


「無始無終」も、現在と過去と未来の三つの分別が無い、無分別の境地だからこそ
無始無終と成りうるのです。


つづく

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[209] 本仏・本尊論⑯

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月25日(火)06時44分0秒   通報    編集済


『当体義抄』


「南無妙法蓮華経」の蓮華は、因果の二法を示しており、
因と果は一体、因果時であることを示しています。

しかし、『当体義抄』に、蓮華は決して譬えではなく、
当体そのものであって
「法」としての名前であるということが説かれています。

三周の説法に約してこのことを論ずると、
『方便品第二』で諸法実相をもって法体とする法説周を当体蓮華といい、
上根の声聞は蓮華という呼び名は、喩えていったものではなく、
蓮華は法の名であって
法華経の法門のことであると悟ります。

かたや中根・下根の声聞に約する時、
蓮華という譬えの名を借りた譬喩説であり、
蓮華は因果が一時にそなわっているところが
妙法に似ているという譬喩蓮華となります。
天台大師が法華玄義の第一の巻に 、
「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」
と釈したのはこの意味です。


『当体義抄』

[ 本文 ]
「問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、」


[ 現代語訳 ]
 問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。
 答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。
 天台大師の法華玄義巻七下の意味は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して、一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、妙因・妙果を倶時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである


つづく

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[208] 本仏・本尊論⑮

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月24日(月)17時20分56秒   通報    編集済


因果倶時


『法華経方便品第二』には、「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」と説かれています。
この言葉の意味は、

 「ただ仏と仏とのみが、すなわち能く、諸法の実相を究め尽くす」

ということです。
仏の「真意」は、仏と仏にしか伝わらない訳ですから、
『法華経神力品第二十一』の結要付嘱の儀式は、
「仏」から「仏」へなされるはずです。

なのに何故、地涌の菩薩に付嘱したのか。

上行菩薩はじめ地涌の菩薩は、出現の時から既に
「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」
と『法華経従地涌出品第十五』に説かれています。

「三十二相」というのは「仏」の特徴です。
地涌の菩薩が「仏」であることを示しています。

なのに何故、菩薩なのか。

そこに、実は深い意味が隠されています。

ひとつには、「一国土一仏」という原則を破らないためとさます。
二仏が並び立つと、衆生に混乱を起こさせるからです。

しかし、上行菩薩がどこまでも
「九界の立場」で出現したことには、さらに重大な意義があります。
それは、「因行(仏因)」の中に「果徳(仏果)」を認めるということです。

上行菩薩は、仏なのに何故、菩薩なのか。

寿量品で釈尊は五百塵点劫の久遠に成仏したと説かれています。
それでは、「その前」はどうだったのか。

「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、
五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。

それでは「無始」ではなく 、
「五百塵点劫の当初」に仏になった「有始」の仏ということになります。

始成正覚の釈迦は、
「本無今有(久遠の本地を顕わさないで、今日の垂迹のみを示す)」
と破折されました。
“根無し草”のようなものだと。

「途中から仏になった」という点では、
寿量品の「久遠実成の釈尊」も、
ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、
始成正覚の釈迦と同じです。
無始無終の「本仏」とは言えません。

では、本仏の本地はどこに説かれているのかといいますと、
確かに寿量品の中に本因、本果が示されています。

その答えが、
「菩薩でありながら仏である」
という 九界即仏界、仏界即九界の

 「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・
  真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」
                 『開目抄上』

の御文の通りです。

もう少し解かりやすく説明しますと、
仏界と九界とがかけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、
九界の中に仏界を具そくし、
仏界の中に九界を具そくする十界互具の「仏」であり「菩薩」であるから、
寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、
久遠から呼び出された上行菩薩も、
どちらも「本仏」と成り、 本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、
仏から上行菩薩への付嘱として説かれているのです。

さらに掘り下げてお話しするなら、
「久遠実成の釈尊」(本果))の本因は、
「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」ですが、
そのような菩薩道を行じてそれが因となって仏の果を得たということであれば、
「因を元として果に成る」わけでして、仏に成る瞬間が生じます。

それでは「有始」であって「無始」には成り得ません。
「五百塵点劫の久遠実成」の本当の意味は、
因と果が同時に存在するといった
「因果倶時」にあります。
それを「本因本果の法門」とよびます。

 「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、
  此即ち本因本果の法門なり」            『開目抄上』

 「爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす
  是れ則ち本因本果の法門なり」         『寿量品得意抄』


つづく

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[207] 本仏・本尊論⑭

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月24日(月)07時05分25秒   通報


厭離断九の仏


『寿量品得意抄』と『開目抄上』の青色文字の部分の解説を始める前に、
この部分に深く関連する「厭離断九(えんりだんく)の仏」について説明します。

厭離断九の仏は、『一代聖教大意』の中で説かれています。

 [ 本文 ]
「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭(いと)う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」

[ 現代語訳 ]
  法華経以前の諸経では、十界互具が明かされていないので、仏に成ろう願う時は必ず九界を厭離(えんり。離れるの意)しなければならない。九界を仏界に具さないゆえである。だから必ず悪を滅し煩悩を断じて仏に成ると説く。九界の凡夫の身を仏界に具すといわないゆえである。だから人・天・悪人の身を滅して仏に成るという。これを妙楽大師は厭離断九の仏と名づけている


爾前権教の仏は、九界の生命を絶ち切って初めて実現できる境涯でした。
いわゆる「厭離断九の仏」です。

人界で何度も生まれ変わりながら歴劫修行を得てようやく仏に成る訳です。
仏に成るといっても爾前権教では
十界が互具していませんので、転生によって仏界へ辿り着きます。

転生によって仏として生まれてきますので
凡夫がそのまま仏に成るということではありません。

法華経に至って十界互具が明かされて初めて凡夫が
凡夫の身のままで仏となる即身成仏が実現しました。

その姿が「無作の三身」にあたる訳ですが、
無作の三身の「無作」は、三十二相の色相荘厳仏に対する言葉で、
三十二相で身を飾らない、凡夫のままの姿をいいます。

そもそも三十二相の仏がこの現実の世に存在し得たのかと申しますと、
爾前権教で説かれる仏は、人界から離れた仏界に転生して存在する仏ですので
人間離れした三十二相という姿で説かれたものだと考えられます。

大聖人様が御書の中でたびたび諸仏といえども迹仏、権仏と申される所以はここにあります。


つづく

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[206] 本仏・本尊論⑬

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月24日(月)06時09分8秒   通報    編集済


『開目抄上』


『寿量品得意抄』と同じような内容が『開目抄上』の中でも述べられています。

[本文]
「 華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は繩を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。
 日蓮案じて云く二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり、其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上・爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」

[現代語訳]
 華厳を始めとして般若・大日経等は二乗作仏をかくすのみならず久遠実成を説きかくしたのである。これらの爾前の経々には二つの失がある。一には十界の中に三千の差別を設けて、二乗は作仏せずと説くゆえに、いまだ開せずといって迹門の一念三千を隠している。法華経迹門にいたれば、法界はすべて、一味平等となり、二乗も作仏するゆえに権を開して実を顕わすとなすのである。二にはインドに生まれて成仏した(始成正覚)というゆえに、なおいまだ迹を発せずとて、本門の久遠、常住の生命観(久遠実成を隠しているこの二つの大法は、一代仏教の綱骨であり、一切経の心髄である。迹門方便品は一念三千を諸法実相に約して説き、また二乗作仏を説いて、爾前の二種の失のうち一つを脱れた。しかりとはいいながら、いまだ発迹では、仏の本地をあらわしていないゆえに、本有常住の生命の実体を説き明かしていない。すなわち発迹顕本していないから、生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住の生命の実体が明かれていないから、仏の生命も九界の生命もその実体が不明で、したがって二乗作仏も不定である。たとえていえば、一念三千を説いたけれどもそれは理の上で説いたに過ぎないから、水面に浮かぶ月影のようなもので、形はそのとおりであるが、実体そのものはないのである。また二乗が作仏するといっても、仏界・九界ともにその本体を説かれていないので根なし草が波の上に浮んでいるごとく、現在において成仏するというだけで、その原因も過去世の下種がわからないから、「定まらず」と仰せられるのである。
 さて、法華経の本門にいたりて、釈尊は五百塵点劫のその昔に成仏したと説いたので、それまでに多数の経々を説いて来た応身・報身等、すべての仏身はみな打ち破られたのである。なぜならそれらの仏身はいかに荘厳な姿に説かれていても、みんなインドに修業し、この世で成仏したと説いているのである。このように寿量品以前の経で説いてきた仏(迹仏)を打ち破ったのであるから、これらの経に説いている成仏のための修業すなわち因も打ち破られてしまった。これすなわち無始無終の仏界に具わって、これこそ真の十界互具・一念三千である。
青文字の部分は、本仏・本尊論⑭以降で解説します


 かくて爾前経で説かれた仏はどうか。とりかえってみるならば、華厳経で説く蓮華蔵世界の中台とか十方台葉の化仏、阿含経で説く丈六の小釈迦、あるいは方等・般若や金光明経や阿弥陀経や大日経等に説かれている権仏等は、この寿量品の本仏が迹を垂れて示現しているのであって、天の月がしばらく大小の器の水に影を浮かべているようなものである。しかるに、諸宗の学者等は、近くは自宗の開祖や先輩たちの邪現に迷い、遠くは法華経寿量品を知らないのである。そして、水にうつる月影が本物の月かと思い、あるいは、水の中へ入って取ろうとし、あるいは縄をつなぎとめようとしている。天台はこのように本仏に迷って迹仏に執着する者をさして「天月を知らないで、ただ池の月を観ている」と言っている

 爾前四十余年の経教は法華経迹門に劣り、法華経においては迹門が本門に劣る。しかし日蓮がここで考えるのに、世間一般の人々にとっては、迹門で説かれた二乗作仏さえ、爾前経の方が強くて迹門は信じがたい。すなわち二乗作仏の根拠は薄弱のように見える。しかし本門寿量品の久遠実成は、また比較にならないほど爾前で説くインドで成仏したという始成思想が強くて寿量品を信じがたいのである。その理由は、爾前と法華を相対するに、なお爾前の方が説時も長く、経も多くて、法華経が薄弱である上に、始成正覚を説く点においては、迹門十四品も爾前経と同一である。本門十四品のなかでさえ、涌出品・寿量品の二品を除いては、みな始成正覚の思想が存している。最後に、釈尊が入滅する直前に説いた大般涅槃経四十巻をはじめ、そのほかの法華前後に説いたもろもろの大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終は説いているが応身および報身の本地は、あらわしていない

※ ここでいう本地とは、応身の本地---方便品---三千塵点劫、報身の本地---寿量品---五百塵点劫、ということです。


つづく

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[205] 本仏・本尊論⑫

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月24日(月)05時54分48秒   通報


『寿量品得意抄』


『寿量品得意抄』の中に次のような御文があります。

[本文]
「爾前の経に二つの失(欠点)あり、一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」と申して迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かざる過なり、二には「始成を言う故に尚未だ迹を発わず」と申して久遠実成の寿量品を説かざる過なり、此の二つの大法は一代聖教の綱骨・一切経の心髄なり、」

[現代語訳]
爾前の経には二つの欠点がある。一つには「行列配布を設けるゆえに、なおいまだに権を開いていない」というもので、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かない失(欠点)である。二には「初成正覚をいうゆえに、なおいまだに迹を発わない」というもので、久遠実成の寿量品を説かない失である。この二乗作仏と久遠実成という二つの大法は、一代聖教の網骨であり、一切経の心髄である


法華経以前の教えである爾前経について、
二つの欠点を指摘されています。
一つは、二乗作仏の法門が説かれていない事と、
もう一つは久遠実成の法門が説かれていない事で、
この二つは、釈迦が説かれた一代聖教の中心となる
大法であると仰せになっています。

御抄の中では更に、


[本文]
「(省略) 迹門には二乗作仏を説いて四十余年の二つの失・一つを脱したり、然りと雖も未だ寿量品を説かざれば実の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水にやどる月の如く根無し草の浪の上に浮べるに異ならず、」

[現代語訳]
 迹門には二乗作仏を説いて、四十余年の二つの失のうち一つを脱れた。ところがまだ、寿量品を説かないので真実の一念三千もあらわれず、したがって二乗作仏も決定しない。あたかも水にやどる月のように、また根無し草が浪の上に浮かんでいるのに異ならない。

と、続きます。

[本文]
「(省略) 本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、

[現代語訳]
 本門寿量品に至って、始成正覚が破られたので、四教の果は破られ、四教の果が破られたので四教の因も破られたのである。因とは修行中の弟子の位のことである。爾前迹門の因果を打ち破って本門の十界の因果を説き顕す。これがすなわち本因本果の法門である。つまり、九界も無始の仏界に本来具わり、仏界もまた無始の九界に具わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千なのである
青文字の部分は、本仏・本尊論⑭以降で解説します


[本文]
「(省略) かうして・かへてみるときは華厳経の台上盧舎那・阿含経の丈六の小釈迦・方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は此の寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小の・うつはものに浮べ給うを、諸宗の智者学匠等は近くは自宗にまどひ遠くは法華経の寿量品を知らず水中の月に実月のおもひをなして或は入つて取らんとおもひ・或は繩をつけて・つなぎとどめんとす、此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と、心は爾前・迹門に執着する者はそらの月をしらずして但池の月を.のぞみ見るが如くなりと釈せられたり、又僧祇律の文に五百のマシラ.山より出でて水にやどれる月をみて入つてとらんとしけるが.実には無き水月なれば月とられずして水に落ち入つてマシラは死にけり,マシラとは今の提婆達多・六群比丘等なりとあかし給へり。
 一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠からず親無き子は人に・いやしまる、 所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ、 恐
 恐謹言。
       四月十七日              日 蓮 花 押」

[現代語訳]
 こうしてかえりみるとき、華厳経の蓮華台上の盧舎那仏、阿含経の丈六の小釈迦、方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は、この寿量品の本仏の天月が、しばらくその影を大小の器物に浮かべたようなものである。だがそのことを諸宗の智者学匠等は、近くは自宗の依経の本来の意味にまどい、遠くは法華経の寿量品を知らない。それゆえに、水中の月を真実の月と思い込んで、ある者は水に入って取ろうと思い、ある者は縄をつけてつなぎとめようとするのである。
 こうした諸宗の智者学匠の誤りを、天台大師は解釈して「天の月を識らずにただ池に映る月を観ている」と述べている。文の意は、爾前迹門に執着する者は、天の月を識らずにただ池に映る月を望み見るようなものである、と釈されたのである。また僧祇律の文に、五百の猿が山から出てきて水に映っている月を見て、入って取ろうとしたが、実際にはない水の月なので、月を取れずに水に落ち入って。猿は死んでしまった。この猿とは今の提婆達多と六群比丘等である、と明かしている。
 一切経の中にはこの寿量品がなかったならば、天に日月がなく、国に大王がなく、山海に宝玉がなく、人に魂がないようなものである。それゆえ寿量品なくしては一切経は無益な経となるであろう。根のない草は久しく生えていない。源のない河は遠くまで流れない。親のない子は人に賤しめられる。所詮、寿量品の肝心・南無妙法蓮華経こそが十方三世の諸仏の母であらせられる。恐恐謹言。
四月十七日                   日 蓮 花 押


つづく

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[204] 本仏・本尊論⑪

投稿者: 法介 投稿日:2018年 9月23日(日)06時06分24秒   通報    編集済


三身の法門

“三千塵点劫”と“五百塵点劫”の関係をわかりやすく図に示すと、

   <法華経の三身>
  方便品---三千塵点劫    ---仮諦 応身
  寿量品---五百塵点劫    ---空諦 報身
  お題目---九識心王真如の都 ---中諦 法身

となり、法華経も三身で成り立っているのではないかと法介は推測します。
先に説明しました、御本尊の「仏の用の三身」、

   <仏の用の三身>
  曼荼御羅本尊  ---応身---仮諦
  一念三千の法門 ---報身---空諦
  南無妙法蓮華経 ---法身---中諦

それに対する「凡夫の体の三身」、

   <凡夫の体の三身>
     凡夫              境智冥合
  凡夫の仮諦の十如是 (方便品)仮観 → 仮諦
  凡夫の空諦の一念三千(寿量品)空観 → 空諦
  九識の南無妙法蓮華経(お題目)中観 → 中諦
                     無作の三身

で、三諦が互具して三三九諦となるのと同様に、
三身も互具するということになるかと思います。

 http://mh357.web.fc2.com/6-1.html (三三九諦の図)

こうしてみると法華経は、迹門方便品は声聞・縁覚に向けて説かれ、
本門寿量品は、末法の地涌の菩薩に向けて説かれているように思われます。
実際、大聖人様も『法華取要抄』の中で、

 「問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、
  答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり
  滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり、」

  [現代語訳]
  問うて言う。釈尊は誰のために広開近顕遠の寿量品を説いたのか
  答えて言う。寿量品を中心とした広開近顕遠の一品二半は初めから終りに至るまで、
  まさしく釈尊滅後の衆生のために説かれたのである
  滅後の中では、末法今時の日蓮等のためである

と、仰せになっています。ここでいう「日蓮等」とは、
末法に出現する「地涌の菩薩」を指していることは言うまでもありません。

十界論でいうところの、「声聞・縁覚・菩薩・仏」とは、実は

  方便品---仮諦---理の一念三千 (声聞・縁覚)
  寿量品---空諦---事の一念三千 (菩薩)
  お題目---中諦---(無記)   (仏)

なのかも知れませんね。


つづく

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