仏法考察



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


165件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[171] ご挨拶

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月19日(土)16時34分29秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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そこのところは残念ながら愚人さんと私とでは見解の相違があるようですね。

今回の考察をHPの方でまとめましたら
私の妙法観は概ね完成しますので
そろそろリアルでの戦いに転じていこうと考えております。

そうなると、こちらの掲示板はしばらく放置状態になるかと思いますので
ロックをかけて書き込み出来ないようにすると思いますのでご了承ください。

また、再開する時が来ましたらその時は宜しくです。
愚人さんには、色々とお世話になりました。
改めて御礼申し上げます。

ありがとうございました。




[170] 法介氏

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月19日(土)15時57分45秒 softbank126074116174.bbtec.net  通報    編集済

 日蓮聖人の曼荼羅本尊は、ゴータマ仏教や龍樹仏教から観れば、「空」であると思います。

 道元禅師も曼荼羅本尊を「空」と観ると思います。

 伝教大師・日蓮聖人の仏教から観れば曼荼羅本尊は円融三諦であると思います。

 仏教を離れた愚人の考えでは、・・・人には魂が宿り、肉体が滅しても魂は転生を繰り返していると思うのですが、『臨死体験』・『前世記憶』・『中間生記憶』についての本にはモノに魂が宿るとの記述は無いので・・・草木も人(肉体)と同じく無常なので曼荼羅本尊を「空」と観るのが「是」かなと思います。



[169] 『三十四箇事』

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月19日(土)15時09分5秒 softbank126074116174.bbtec.net  通報

  四 別教三身の事

 別教の三身の事

 別教の三身とは、無相の三身なり。歴別の三身なり。先づ無相の三身とは、法身は色に非ず、声に非ず、乃至法に非ず、ただ無相の真如なり。無相の真如は、色心の二法を離るるが故に、真如の所には縁起の性を置かず。真如には縁起・不縁起を云はず。然りと雖も、無明の薫に依って、始めて諸法と転ず。全く法身真如の体には、縁起の謂れ無きなり。ただ無明に薫ぜられて、かくの如く変異す。爾前の円は、性に縁起の理を置く故に不同なり。また歴別の三身とは、法身の所には余の応報無し。報身の所には法応無し、応身の所には法報無し。ただ応身も、この応身を捨てて法身に帰すと云ふなり。法身もかくの如し。故に歴別の三身なり。
 問ふ、性徳の名、名は別教に通ず。別教には性徳の語有りと雖も、三皆性に在りて、互融せず。故に別義を成ず〈文〉。この文は、不融と雖ども、性に三身これ有りと聞こへたり、いかん。答ふ、互融せずと云ふを以て、意得べきなり。性は縁起の謂れ無けれども、無明に薫ぜられて、始めて諸法現前す。故に性は一味なりと雖も、無明に薫ぜられて諸法現ず。また修を以て性に帰す。故に三皆性に在りと云ふ。全く一所に三有るべからず。ただ前後を尋ねて、三と云ふなり。能く能くこれを思うべし。(『道心 第8号』21・21頁)



[168] 愚人さん

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月19日(土)14時47分19秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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『正法眼蔵入門』のお示しの文章は、水は関わる人が変われば瓔珞にもなれば猛火にも宮殿にもなる。縁起次第で生かされもし殺されもする。といった「無我・無自性」をいわんとされているものと思われます。

道元禅師も事象を空でとらえておられるようですね。

愚人さんは御本尊様も「空」と解釈されておられるようですが、
『十如是事』に、

 「三千と云うは中諦なり」

とありますように
一念三千の当体であられます御本尊様は「中諦」だと私は思っております。

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[167] 諸類の水なきがごとし。

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月19日(土)12時24分54秒 softbank126074116036.bbtec.net  通報    編集済

 法介氏。ご返事して下さり有り難う御座います。

 道元禅師(禅宗系では上人ではなく禅師と呼称しているので禅師とします)の『正法眼蔵』に、

 おほよそ山水を見ること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる、水をみるに瓔珞とみるものまあり。しかあれども、瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞は、われ水とみる。
 水を妙華とみるあり。しかあれども、花を水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、楼台とみる。あるいは七宝摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清浄解脱の法性とみる。(中略)人間これを水とみる。殺活の因縁なり。
 すでに、随類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに所見しなじななりとやせん。諸象を一境なりと誤錯せりとやせん。功夫の頂ニンにさらに功夫すべし。
(中略)さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。(刊/角川ソフィア文庫 著/頼住光子 『正法眼蔵入門』78・79頁)

とあります。この道元禅師の文により愚人は、「曼荼羅本尊」を「曼荼羅本尊」として成さしめているのは信仰者の主観であり、「曼荼羅本尊」もまた「縁起」によって存するモノであり、「縁起ー無自性ー空」である故に「曼荼羅本尊」もまた「空」であると考えました。

 しかしながら道元禅師は、

 而今の山水は、古仏の道現成なり。(刊/NHK出版 著/ひろさちや 『道元 正法眼蔵』74頁)

と山水もまた山水の在り方において説法をしているのだとしています。これからすれば「曼荼羅本尊」もまた「曼荼羅本尊」の在り方において説法をしていると言えると思います、ら

 なお、法介氏が信仰している「曼荼羅本尊」を「モノ」と表記した失礼をお詫びします。



[166] 愚人さん

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月19日(土)10時39分47秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報

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空なるが故に事象を「無我・無自称」とする訳です。
「無我・無自称」といっても単なる「無」とみなす「但空の理」ではなく
「無我・無自称」の中に妙法が具わっているとみる「不但空の理」ですから、
次のような例えになります。


目の前の人物が怒っている相であるならば
怒るに至るまでの十如是がそこにはあって

目の前の人物が体が不自由な相であるならば
そのような体で生まれてこなければならない三千世間がある訳です。

そのように、
対称となる事象を実体視するのではなく、
法でとらえる訳ですから
とらえる側の当事者の境涯が十界のどれになっているかによって
とらえる事物の相もまた異なってきます。

関わる人が変われば見え方も変わってくるので
事物には本質も実体も存在しない「無我・無自称」となります。

ではご本尊様はどうかと言いますと、
自身がどのような境涯(九界)でご本尊様と向き合おうが
ご本尊様は常に仏界という相であられます。
我々が人界の中で十界が互具しているように
ご本尊様も仏界の中で十界が互具されておられます。

その人界の中の仏界と
仏界の中の人界とが融合することで仏の智恵を悟ることが出来ます。

このように「無我・無自称」というのは、
たんなる「無」ではなくその中に妙法(一念三千)が具わっているということで
ご本尊様は一念三千の当体ということになります。

ご本尊様に限らず事象は全て一念三千の当体とみなすのが
「諸法実相」でしょう。



[165] 法介氏

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月19日(土)05時42分29秒 softbank126074097174.bbtec.net  通報    編集済

 法介氏の考察を読ませて頂きました。

 素朴な質問なのですが、日蓮聖人の「曼荼羅本尊」も「無自性」ですか?。



[164] 33、自らを省みる

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月19日(土)03時00分24秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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「日蓮正宗要義」や日顕上人の「三大秘法義」の中に
「宇宙法界」や「空」を平等とする誤った解釈が乱立しています。

「空」を平等と解釈しておりますが故に、
「無我・無自称」という概念も欠落しています。

講頭さんクラスの方に「無我・無自称をご存知ですか?」とお聞きしても
私が聞いた限りでは、知っておられる方は、一人もいませんでした。

学会員さんにしても然りです。

宗門にしても創価学会にしましても
どちらも実体有りの外道義で法門を解釈しております所以です。


現在、宗門では学会教学を外道義だといって破折しておりますが、
その宗門自体が外道義を唱えているのです。

戸田会長の時代から既に学会教学は客観認識の外道義でした。
それを全く宗門が指摘・指導された痕跡が無いところをみると
おそらく宗門が外道義の教学を創価学会に教えたものだとさえ推測されます。

平成に入ってから宗門が
数々の誹謗・中傷を創価学会からあびせられ攻撃されてきたのは、
そういった厳しい因果の顕れなのではないでしょうか。

創価学会を攻めるよりも、まずは自分たちに目を向け
外道義に染まった宗門の教学を自覚反省し正して、
これからどうあるべきかを示していくのが猊下の御役目だと私は思います。

学会にしても然りです。

民衆を救いたいとの三代会長の想いを心に刻む弟子ならば、
私利私欲、名聞名利を捨て
地位も名誉も財産も、身の福運すらなげうっての精神で
戸田会長が戦後の焼け野原に一人立つ精神で
1から学会を立て直して行かれたように
「宇宙の法則」という誤った外道義に染まった学会を
立て直していって欲しいと願う次第です。

おわり



[163] 32.日蓮正宗要義 (2)

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月18日(金)11時07分16秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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第二項 本門本尊

第一目 一念三千・大曼荼羅

端的にいうならば、一つの法がいかなる事実的存在にせよ、心理の上に顕われた抽象的概念にせよ、一瞬の妄想的短想にせよ、そこには宇宙法界のすべてを含み具えており、まったく欠減がなく不可思議であることを教えるのが妙の一字である。一切の精神的現象、物質的現象が互いに具わっているとともに、一々が互いに他のすべてを具え、含みあっていることを示すのである ※①

   ① この文章は一念に三千の世間が具わっているということを説明しようとしているのでしょうが、
   客観認識でとらえるところの三千世間を指している文章です。
   「客観認識でとらえる」の意味は
     こちら↓の10種類のクレヨンのお話です。

     http://mh357.web.fc2.com/3-1.html 3-1.私の世界

これは哲学的には三諦円融の理によって説明される ※②。三諦の円融とは妙ということである。この宇宙間森羅の諸現象は一々に三諦の真理を兼ね備えて、円く融通しており、すべてが真如の当体である。即ち仮諦とは差別の真如で、およそあらゆる生命の現実の当相である。それは十界の中の何れかの一界に定まっている。空諦とは平等の真理で、現実の一界に宇宙法界の他の九界が平等に具わり互具するところをいう ※③。中諦とはこの差別に即して平等、平等に即して差別、また差別に非ず平等に非ず而して平等、而して差別の妙相妙体に名づける。したがって即空・即仮・即中の真如は十界互具となるのである。
(日蓮正宗要義 83ページ)

  ② 三諦の円融は哲学的に説明するものではありません。
   哲学は分別法であって三諦の円融は無分別法ですから、
   実体思想の分別法から完全に抜け出ないと三諦の円融の理解には至りません。

  ③ ここでも「空」を「平等」と解釈しています。
   というかこの「空=平等」の解釈が現在の日蓮正宗の教学です。
   どの代の猊下からこの間違った「空」の解釈に変わってしまったのか、
   調べる必要があると思いますが、『開目抄』に


   「仏教がだんだんと世間に行き渡るにしたがって、
    仏教の僧侶が戒律を破ったためにもとの俗人に戻ったり、
    あるいは俗人に心を合わせたりする者が、儒教の中に仏教を巧みに採り入れたりした。」

   とありますので、おそらく明治に入って様々な戒律が破られて、
   出家僧侶たちが在家と変わらぬ生活をしだした頃からのことだろうと私は推測します。


つづく

http://



[162] 31.日蓮正宗要義 (1)

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月18日(金)04時16分54秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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第二項 本門本尊

第一目 一念三千・大曼荼羅


当宗の本尊とは法即人、一念三千自受用身の人本尊、人即法、自受用身即一念三千の法本尊、いわゆる人法一箇の本尊であるが、初めに法本尊の一念三千について述べる。

 まず本門に約して言えば、一念三千とは本仏の悟りと活動に名づけるのである。久遠元初、いまだ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、一人の聖人が顕われた。宇宙法界間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである ※①。

 ① 大聖人様が覚知されたのは人の心の法であって宇宙の法ではありません。

それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。つまり宇宙法界が混沌の時代においても、また天地開闢以来森羅万象の差別相にあっても一貫して存在する法理、すなわちまたその間のあらゆる事象、あるいは星雲の凝縮と発熱の相により、十界・十如・三世間の歴々たるまでの、すべてを具える不思議の大生命体である。これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。この妙法はまた聖人の生命の当体であり一念であって、これが宇宙法界に遍満するところを一念三千と表現するのである ※②

 ② 大聖人様の一念は宇宙に遍満していません。戒壇の大御本尊様の中にあるのです。
   その戒壇の大御本尊様が一念三千でもあるのです。


したがって一念は即三千であり、三千は即一念である。この如実の法に即する人格を本仏と呼び、人格に即する法を本法という。すなわち一念三千とは本仏の悟られた宇宙法界の事理、すなわち現象と実在のすべてを含む法理、及びそれによって行われる衆生救済の活動であるといえる ※③
(日蓮正宗要義 81ページ 改訂版は82ページ)

 ③ 悟られたのは宇宙法界の現象や実在の法理ではありません、仏の法を悟られたのです。
   その「仏の法」とは実体思想から離れる「無分別の法」です。


昭和53年4月28日 発行
平成11年12月19日 改訂発行
「日蓮正宗宗務院」発行

つづく

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[161] 30.外道に染まった正宗教学

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月18日(金)03時39分33秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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日顕御隠尊猊下が平成27年4月28日に初版発行された
「三大秘法義」からの抜粋です。


第一章 本門の本尊

(392ページ)
 さて、本尊には必ず「法」と「人」がなければならない。
 法とは、その尊ぶべき所以としての、万人が拠って立つべき普遍的原理と筋道である。衆生はこれによって、その期するところを得るのである。その法は教えによって伝えられる。衆生は教えによって、各人の必要とする知識や道理、宇宙法界の種々相 や意義を知るのであるが、その総括したものが法である。
いかなる宗教も、分々にこの法を立てるのであるが、多くの低級な宗教ほど、その内容は狭く乏しいのである。釈迦の一代仏教においても、法界の真理を示すのに種々の段階があるが、小乗仏教において詮とするところは但空の理法である。したがって、そこより顕れた声聞の四諦、縁覚の十二因縁、菩薩の六度、行因等も、その因果のすべてが小乗但空の理法を内容となし、その修行の究極は灰身滅智に帰するのである。大乗においては、空についても不但空を示し、さらに仮諦を説き、中諦を説く。故に、あらゆる物事の存在とその現実相、ならびに実在の理を広く説き明かすのである。しかし、それが宇宙全体の理義を顕す全体法 ※①でなく、それを分々に取り分け、次第に浅きより深きに入れるため分割した、部分的な法理であるから、その真理と共にそれを説く人、すなわち仏もまた不完全となるのである。つまり、一代仏教においては、その正しい教相判釈よりすれば法華経が真実で、それ以前の小乗・権大乗等の爾前経はすべて方便である。また、法華経中にも本門より見れば、方便品等の迹門は方便のうちであるから、爾前経と迹門を説いた仏も、また方便の仏である。

(393ページ)
 以上のように、法には種々の段階があるが、いずれにせよ法が顕れるのは、まずそれを悟り、そして教える人格的存在、すなわち人がなければならない。人がなければ、真理としての法が存在しても、それを意識的に把握し、教えることができないから、法は全く存在しないと同じである。故に、法がその意義と価値を顕すには、必ず人格的存在を要するのである ※②。

    ② ここでいっている「法」とは①でいわんとしている「宇宙全体の理義を顕す全体法」だが、
     その「法」がどこかに存在するが、それを悟り教える人がいなければ
     その法は存在しないのと同じであると言っています。


 所詮、宇宙法界の全体法である大真理を、大人格的存在があって、この全分一切を悟るとき、その真理は人格的価値の上にのみ顕現する。それが法に即する人である。また、その法は単独では全く存在価値はなく、人格的存在の価値に上に、宇宙に遍満する大真理として活動するのであり、それはすなわち人に即する法である。この大真理と一如する人格的最高の存在が人本尊であり、この価値の存在によって顕れる大真理が法本尊である ※③。

     ③ そして、その宇宙法界の全体法である大真理を悟り体現されたのが
     人本尊であられる大聖人様であると言っています。
     また、その法は 「人格的存在の価値に上に、宇宙に遍満する大真理として活動する」と言っているが
     その法が宇宙に遍満して活動すると言いたいのか、
     「宇宙に遍満する大真理として」人格に顕れて活動すると言いたいのか
     判断しにくいあいまいな文章ですが、どちらにしても
     大聖人様がいわれている「法」は「宇宙法界の全体法」などではなく、
     人の心が、縁起の法や因果の法で成り立っているといわれているのです。
     それが相・性・体、すなわち如是相・如是性・如是体の三如是であり、
     法身如来・報身如来・応身如来であると言われております。
     「宇宙法界の全体法」などではなく「人の心の法」です。


 そして法と人、全真理と価値が互いに合一し不可分であるところが、単なる哲学や真理のみと異なる。また、単なる聖人や賢人の存在価値と異なって、全真理を体現する人格の不可思議な活動なのであって、すなわち、これを仏法の至極の当体を顕す意味で、理の一念三千に対する事の一念三千、人法一箇の本尊と称するのである。

第二節 法本尊
(400ページ)
 法本尊とは、人即法の本尊を言う。御書中においては「南無妙法蓮華経」、あるいは「妙法蓮華経」、あるいは「題目の五字七字」等をもって表現されているが、根本の法体より言えば、久遠元初自受用報身の証悟された法の全体であり、すなわち事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の本尊である。
 事の一念三千とは法本尊の内容で、宇宙法界に遍満する本仏の一念に即する十界互具と十如是と三世間を束ねた融妙の理法と活動を言うのである ※④ 。この三千の法は、普遍性と個別性と自在性を具えて融妙しているが、一切衆生はその自覚もなく、したがってそお活用に至らない。宗祖大聖人がただお一人、妙法のお振る舞いの内証をもって、この法を顕示されたのである。いわゆる法の全体性と人の個別性が全く一如して、法に則する人、人に即する法のなかにおいて、人即法をもって法本尊とする。

    ④ 「宇宙法界に遍満する本仏の一念」、この文章は大聖人様の一念が
      宇宙に遍満しているといわんばかりの表現で
     これでは創価学会の宇宙の法則論となんら変わりありません。


つづく



[160]

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月18日(金)02時30分52秒 om126212146192.14.openmobile.ne.jp  通報

 無常なるが故に空。

 常に移り変わる故に空。

 



[159] 29.十方法界と宇宙法界

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月18日(金)02時11分9秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報

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法界とは、事物を実体では無く「法」で観じとるという
実体思想からの離脱の手法として仏様が用いた言葉です。

十法という言葉も
主観であることを意識させる為に、視点を中心に置いた言葉です。

 http://mh357.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11866509#21143277 解説-①

その言葉になぜわざわざ客観認識(外道)の
宇宙という言葉を付けて「宇宙法界」などと言うのでしょう。

『開目抄』の中で大聖人様は、

「このような優れた経典を読誦しながら、
 真理に体達した仏陀の深い秘密の巧みな意義を失わせてしまい、
 世俗に受けられるように飾った文章や、意義のない言葉を据え置くのである。」

といって、仏法に添って外道の説を立てる者を「附仏教」といい、
仏法を学んで外道の説を立てる者を「学仏法成」といわれています。


確かに我々は宇宙空間の中に存在します。
しかし、その宇宙空間を認識して生活しているでしょうか?

法華経は修行者の心を中心に説かれた教えです。

周りを見渡して、山や川や大地や大空、太陽や月や雲や夜空は、心で認識出来ても
宇宙を認識出来る人は、宇宙空観にいる宇宙飛行士ぐらいでしょう。

宇宙に行ったこともない我々は、
物理や科学といった客観教育で習った「宇宙」という
分別の知識が頭に記憶されているだけです。
今、周りを見渡して視界の中に宇宙が見えますか?

宇宙は見えないけど知識として身についているので
イメージとして宇宙を感じ取ることは出来るかもしれません。

しかし、宇宙を観じとってもそこに「悟り」はありません。
「悟り」は自身の心の中にこそあるのです。


そこのところを『一生成仏抄』では、

「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは
 譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、
 然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて
 若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、
 故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、
 爰を以て止観には雖学仏教還同外見と釈せり」

と、天台の言葉を引いて
雖学仏教還同外見(仏法を学ぶといえどもかえって外道に同じ)といわれています。

法華経は主観を説いた教えです。
心の内を説いた教えだから内道なのです。
宇宙は心の外に存在するものです。

つづく



[158] 先入観から自由になる

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月17日(木)00時01分24秒 softbank126074084242.bbtec.net  通報    編集済

 しかあれば、山流の句を仏祖に学すべし。驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。一回は流なり、一回は不流なり。この参究なきがごときは、如来正法輪にあらず。(刊/角川ソフィア文庫 著/頼住光子 『正法眼蔵入門』74頁)

 ■道元上人は、ある人や、ある事物に先入観を持たずに、一つの事に執着すること無く、心の窓口を広げておくことの大切さを教えているのだと、愚人は理解した。



[157] 28.開目抄

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月16日(水)23時10分52秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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開目抄 上 学会版御書 189ページ7行目

[本文]
 例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教、学仏法成等これなり。


<訳文>
たとえば、中国の外典やインドの外道などに思いをめぐらすと、釈尊が出現する以前の外道は、まだまだとらわれが浅い。ところが釈尊が出現されてから後の外道は、仏教を見聞して自分たちの教義の欠陥を知り、巧妙に繕う態度が顕われて仏教の教義を自分たちの教義として取り入れてしまうから、邪見が非常に深いことになる。仏法に添って外道の説を立てる者を「附仏教」といい、仏法を学んで外道の説を立てる者を「学仏法成」というが、それはこうした人たちである

[本文]
 外典も又々かくのごとし。漢土に仏法いまだわたらざりし時の儒家・道家は、いういうとして嬰児のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教漸く流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆへに、或は還俗して家にかへり、或は俗に心をあはせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。止観の第五に云はく「今の世に多く悪魔の比丘有って、戒を退き家に還り、駈策を懼畏して、更に道士に越済す。復名利を邀めて荘老を誇談し、仏法の義を以て偸んで邪典に安き、高きを押して下に就け、尊きを摧いて卑しきに入れ、概して平等ならしむ」云云。


 弘に云はく「比丘の身と作って仏法を破滅す。若しは戒を退き家に還るは衛の元嵩等が如し。即ち在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す。高きを押して等とは、道士の心を以て二教の概と為し、邪正をして等しからしむ。義是の理無し。
曽て仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下きに就け、用て彼の典の邪鄙の教へを釈するを摧尊入卑と名づく」等云云。此の釈を見るべし。次上の心なり。


<訳文>
外典についても同様である。漢土(中国)に仏法がまだ渡来しなかった時の儒学者や道教家は、ゆったりしていて乳児のように幼稚であったが、後漢の明帝の永平十年(西暦六七年)に仏教が渡来して道教家との間で論争が行なわれてからのち、仏教がだんだんと世間に行き渡るにしたがって、仏教の僧侶が戒律を破ったためにもとの俗人に戻ったり、あるいは俗人に心を合わせたりする者が、儒教の中に仏教を巧みに採り入れたりした。天台大師は摩訶止観第五巻にいう。「今の世に多くの悪魔の僧がいる。彼らはいったん出家した僧が戒律を守れずにもとの俗人に帰り、処罰されるのを恐れて、再び道士(道教家)に戻るのである。さらに名利を求めて荘子や老子を自慢して語り、仏教の教義を巧みに取り入れて仏教に対立する儒教・道教などの典籍を解釈し、高い教えと卑しいものとをごっちゃにして、概(とかき)の棒でかきならしてしまう」。妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決には、以上の文章を解釈して次のようにいう、「僧の身となりながら、かえって仏法を破滅に陥れる者がある。〈いったん出家した僧がもとの俗人に帰り〉というのは、若くして出家しながら、後に俗に還り、周武帝に廃仏を上申した衛の元嵩らのようなものである。彼は俗に戻って仏法を破壊した。彼は仏教の正しい教えを偸(ぬす)み取って邪典である道教の典籍にそれを添加した。〈高い教えと卑しいものとをごっちゃにして〉というのは、道教家の立場で仏教と道教とをかきならしてしまい、邪なるもの・正なるものを一緒にしてしまったということである。本来、そのようなことはあり得ないのに、かつて仏法の門に入った知識を悪用して、正しい教えを偸(ぬす)み取って邪(よこし)まなものを助け、八万四千の法蔵・十二部経からなる仏教の高い教えを、わずか五千余言、上下二篇の道教の低い教えに押し込んで、道教の邪しまでいやしい教えを解釈した。それを、高い教えと卑しいものをごっちゃにする、というのである」。この解釈を見よ。これらは前に述べた仏法盗用の例である。


 開目抄 下 学会版御書 224ページ 15行目

[本文]
又云はく「爾の時に是の経、閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時に、当に諸の悪比丘有って、是の経を抄略し、分かって多分と作し、能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、如来の深密の要義を滅除して、世間の荘厳の文飾無義の語を安置す。前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著く。当に知るべし、是くの如きの諸の悪比丘は、是れ魔の伴侶なり」等云云。


<訳文>
また同経の同品にいう。「そのときに、この涅槃経が世界中に広く弘まるであろう。このときに、まさに多くの悪い出家僧がいて、この経をかすめ取り、水増しをして多くの経典につくり、正しい仏法の色や香りや美(よ)い味わいをなくすことであろう。この多くの悪人はまた、このような優れた経典を読誦しながら、真理に体達した仏陀の深い秘密の巧みな意義を失わせてしまい、世俗に受けられるように飾った文章や、意義のない言葉を据え置くのである。前の方から抜き書きして後の文章に付けたり、後の方から抜き書きして前の文章に付けたり、あるいは前と後の文章を中間の文章に入れたり、中間を前と後の文章に付けたりもする。まさしく知らねばならないことは、このような多くの悪い僧こそは人の善事を妨害する悪魔の仲間なのである」と。

つづく

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[156] 『三十四箇事』

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月16日(水)09時51分54秒 softbank126209027094.bbtec.net  通報

  三 常差別三身の事  付本門

 常差別の三身とは、如来蔵理の中に、元より三身万徳の垂迹、不思議の妙理、これ有るなり。故に迹を諸教に垂る。若し顕遠し已れば、本迹各三にして三土の迹を垂る、この意なり。痴人は、水は方円無く、ただ器の縁に依り、方円の形始めて現ずと思へり。全くしからず。水の体、本有として方円の形を具す。故に器に入る時、方円を成ず。若し元よりこれ無くば、器に入る時、全く方円を成ずべからず。また沙を炉して油を求むるが如し。
 常差別の三身、かくの如し。本より如来蔵理に本有の三身これ有るが故に、垂迹の三身を現ずるなり。本の三身無くば、何ぞ迹の三身有らん。ただし、歴別不同なるには有らず。ただ一体なれども、しかも三身なること、本有として具足するなり。体無くば影無く、本無くば何ぞ迹有らん。本の三身、迹の三身、この意なり。諸教の教主、并びに諸の教門は、皆本門より垂迹施設するなり。能く能くこれを思うべし。(『道心 第8号』21頁)



[155] 27.境智冥合

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月16日(水)07時09分2秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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我々が認識している世界は、様々な百界の相ですが
その相も見る人によっては全く別の相となって写っていたりもします。

ということは、相が先にあるのでは無く
人の心が相を作り出しているということになります。

では、心が先なのかといえば、
見てもいない絶景を
「美しい」と心が先に思うことはありません。
まして同じ風景であっても「美しい」と思わない人だっています。

パンを盗んだ男にしてもしかりです。
 http://mh357.web.fc2.com/1-3.html 3.人の見え方
ある人がみたら悪人の相であっても
子からみたら善人の相としか見えません。

心が先だとか相がさきだとかでは無く、

相=心(性)

のあらわれが体であるという相・性・体の関係を言われています。

これは、実体を相と性の当体とみなすことで「無我・無自称」として
実体思想から完全に離脱させているのです。


次に、

「もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。
 もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。」

の文ですが、
上の文が因果の法(十如是)を意味し、それを縦として
下の文が縁起の法(百界)を意味し、それを横としています。

そして最後に、

「縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。
 ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。
 言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。」

百界の相は仮諦であり分別です。
千如は因果であり空諦であり無分別です。

縦に非ず横に非ずということは、
分別に非ず無分別に非ずということです。

分別と無分別の関係は、生と死の関係でもあります。
「仮諦・空諦」という分別も、「分別・無分別」という分別も、「生と死」という分別も
全ての分別が一切存在しない世界、
それが中諦であり、無分別の智恵である不可思議境の一念三千なのです。


全く分別が存在しない訳ですから、現在・過去・未来の分別もありませんから
永遠の生命観に立って過去遠々劫の宿業を自覚する境地に至るのです。

また、自身とご本尊様との分別も無くなる訳ですから
『御義口伝』にありますように

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云」

と、九界の凡夫と仏界の仏とが一体となって境智冥合するを

「諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、
 斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に
 生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり」『総勘文抄』

と仰せなのです。


つづく



[154] 26.相

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月15日(火)16時23分51秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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「八相、物を遷するがごとし」

の八相が釈迦の八相のことなのか曹洞宗でいうところの生・住・異・滅の
四相を指しているのかはわかりませんが、

 「物、相の前に在らば、物遷されず。
  相、物の前に在らばまた遷されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。
  ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。」

どちらにせよ重用なのはその後に続く上に示す言葉です。

釈迦の八相にしろ生・住・異・滅の四相にしろ言わんとすることは、
物の相は変化するものであり、変化することなく永遠に留まる相は無いということです。

その物が、相があるから物として認識できるのか
物があるから相が認識できるのか

また、相があるから変化を認識するのか
変化するから相を認識できるのか

という人が物を認識する原理を語っているのです。


一念三千は人の心の所作を説いた教えですので
当事者を中心に置いた世界を語っています。

そしてその一念三千は大聖人様が『一念三千法門』で

「此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり」

と仰せのように十如是からはじまります。

天台がいう「一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。」は、
諸法が先か、心が先かということで
「前もまた不可なり。後もまた不可なり。」と天台は結論付けています。

先の八相の物が先か相が先かにしても同じですが、
ここで言わんとしていることは、
我々が認識しているこの世界は、十如是の「如是相」から起っているということなのです。

その如是相は本末苦境等で因果具時なので、

相=心=因果+縁起=諸法

で、どれが先だとか後だとか、前だとか後ろだとかという事は無く
一瞬の心に相(縁起であり如是相)も心=性(因果であり如是性)も
具しているということを言わんとしているのです。

日顕上人が言われるような、
 http://mh357.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11919983#21201523 阿部日顕上人講義
唯心論や唯物論の哲学の話ではなく、
時間や空間の物理学の話でもないのです。

哲学も物理学も分別法で成り立っている訳で客観認識による実体論です。
それらと比較しても所詮、比較対称の分別の論議でしかありません。

天台は、一切の妄念を止め、正しい知恵で対象を観察する止観法の話をしている訳ですから、
全て主観で受け止めないとおかしな解釈になってしまいます。


つづく



[153] 法介氏

投稿者: 愚人 投稿日:2016年11月15日(火)16時05分57秒 softbank126209027051.bbtec.net  通報    編集済

 日蓮聖人の思想の土台になっているのは、「中古天台」「密教」のような気がします。

 道元上人の『正法眼蔵』には、こんな文もあります。


 知るべし、仏心といふは、仏の眼睛也、三界なるがゆへに、山海国土、日月星辰なり。仏教といふは、万象森羅なり。

 仏心というのは、覚者の瞳である、仏法の本質である。それは汲んでも何ものにも捉えられない底抜けの柄杓である。心は全存在全現象を捉え、過去現在未来の全時間を捉えるのであるから、全天地を捉え、全宇宙を捉える。心は実相を空相として捉える。仏教とは万象森羅であり、人間世界をも含んだ森羅万象の外にあるものではない。(刊/河出文庫 著/石井恭ニ 『正法眼蔵の世界』17頁)


 ■この文は、一念三千の思想だと愚人は理解しています。



[152] 25.『摩訶止観』第七章 正修止観

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月15日(火)15時12分26秒 p326208-ipngn200710fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp  通報    編集済

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「三諦の円融」の説明が終わったところで
次に『摩訶止観』第七章 正修止観の観不思議境を説くところを引用して
今までの説明よりも更に詳しく一念三千を解説していきたいと思います。


「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、
 百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。
 介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。
 例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。
 相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。
 ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。
 もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。
 縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。
 ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。
 言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。」
 (『摩訶止観』第七章 正修止観章より)

まず、最初に着目すべきは、
通常なら十界、百界、千如で三千世間と言うところを
「一界に三十種の世間を具し」と「百法界に即ち三千種の世間を具す」とに分けているところです。

三十種の世間=十如是×三世間=三十世間
三千種の世間=十界×十界×十如是×三世間=三千世間

上の三十種の世間を一界にと言い
下の三千種の世間を百法界と言っています。

これは実は、十如是(因果)と百界(縁起)を対比させているのです。

十如是は作用を説きあらわす法であり十の如是が同時にあらわれるものではありません。
しかしその一つの如是には残りの九の如是が同時に具わっている訳です。

それに対し百界は、
右を見れば穏やかな川の流れの相があり、
左を見れば激しく撃ちつける滝の相がり、
目の前にはお腹がすいたと駄々をこねる子供の相があったりで
百の異なる様々な相が同時にあらわれて自身が認識する世界を形成しています。

この十如是の作用(因果)を縦として
百界の相(縁起)を横とすることを前提に置いて
話が始っているのです。

つづく


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